周囲はやるべきことが終わっているのに、自分は出来ていない。
手際が悪くて、自分だけが取り残されている。
そんな心の痛みを、経験したことはありますか?
私は、手先が不器用ゆえ、しょっちゅうあります。
今日は、痛みとの向き合い方をテーマに書きたいと思います。
産後ケア施設で、講座に参加した。赤ちゃん連れで参加できる講座だ。
講座終了後はランチタイム。
赤ちゃんのお世話が終わった人から、順次ランチ食べることになった。
手際よく授乳したり、オムツ変えたり。
みんな、どんどんランチを食べ始めていた。
私の子どもは、今、1日3回、離乳食を食べている。
まず子どもにお昼をあげてから、ランチを食べようと思い、準備した。
冷凍した離乳食をチンしたり、お皿に移したり…
私はタスクが積み重なると、頭が混乱してしまうタイプだ。
どういう手順でやろうかな…
慣れない環境で離乳食を準備するのは緊張する。
やっと準備して、子どもに食べてもらったが、机や洋服がべちょべちょになった(まあ、いつものことだが…)
あ~…きれいに拭かないと…
またタスクが発生し、頭がグルグルする。
べちょべちょを片づけ、自分がランチを食べよう!と思ったときには、他の参加者は皆、ランチを食べ終わっていた。
ようやくランチにありつけると思えば、子どもが皿に手を突っ込んで熱くて泣いたり、つかまり立ちをして転んだり…
みんなはもう、帰る準備をしているのに、私はまだ食べていない。
こなしても、こなしても、新たな課題が降ってきて、進まない…
てんやわんやだ。
大丈夫ですか?手伝いますよ?
周りの人は、優しく言ってくれる。
ありがとうございます、大丈夫です、すみませんと、ニコニコ答える。
でも、心は焦っている。
必死に、大丈夫な自分を取り繕っている。
周りは終わっているのに、自分は手際が悪く、まだ何もできてない状態。
この感覚って、どこかで経験したことあるな…
思い出したのは、2つの出来事。
中学時代の家庭科の授業。
私は本当に裁縫ができなくて、一人だけ全然進めなかった。
毎朝早く登校して作業し、みんなから遅れないように、必死だった。
もう1つは、高校時代の修学旅行。最終日の自由行動班を組むときだ。
私は一人が好きだったので、友人と一緒に行動するのは、気が進まなかった。でも、一人を貫くと、ぼっち同士で寄せ集め班に入れられてしまう。
それは嫌だった。
必死にニコニコして、部活の友達と同じ班になるように取り繕った。
部活には合わない友人が多く、本当は仲良くなかったが…
あぶれないように。
みんなと同じにならなくちゃ。
必死に、自分を殺して頑張っていた感覚。
リアルに思い出し、モヤモヤした。
現実を生き抜くには、ある程度、周囲に合わせる必要がある。
家庭科の裁縫には、提出期限がある。
修学旅行で、高校生がひとりで行動するのは難しい。
施設の利用時間もあるから、だらだらランチを食べるわけにもいかない。
だから、私は必死に頑張った。
このモヤモヤは、生きるために必要な努力の結果だ。
でも。
もし私が、テキパキと動ける人だったら。
それは、私じゃない。
不器用で、手際よくやることは、やっぱり苦手だ。
だったら、頑張った自分を、もっと認めてもよいのではないか。
テキパキが苦手な自分だからできることに目を向けたら、自信に変わるのではないか。
慣れない離乳食の外食も、一生懸命用意した。
子どもに、栄養のあるものを、食べてほしいと思った。
実際、子どもは美味しそうに食べてくれた。
それはとても幸せだ。
私だからできること。
親が手際よく、なんでもテキパキしていたら、子どもはプレッシャーに感じるかもしれない。
実際、私の母はとても器用で、家事レベルがかなり高い。できないことを指摘されて、同じレベルを求められるのは、かなりしんどかった。
苦手なことがあるのは、人間として当然。
テキパキできちゃう人は、手際の悪い人の気持ちはわからない。
手際の悪さは、私の弱さかもしれない。
でも、無理のない自然体で、子どもと接することができる。
子どもにもし、苦手なことがあっても、そこを責められる苦しさを、私は知っている。だから、子どもとの接し方も、俯瞰して考えることも、(きっと)できるだろう。
できない姿を子どもに見せられるのは、ある意味強みだ。
私の良さは、テキパキ物事をこなせるところにはない。
日常にあった出来事を言葉にして、学び直して再構築できることだ。
今、その能力を使って文章を書いている。
幸せだと思う。
でも一番幸せなことは。
弱くて、苦手も多い私を、子どもが求めてくれること。
人見知りで、私が抱っこしないと泣き止まない。
私をまるごと、全部、受け止めてくれる。
ありがとうね。とても難しいことだけど、私もあなたを全部受け止められるようになりたい…
この出来事を、モヤモヤで終わらせていたら、この幸せを味わえなかった。
勇気を出してモヤモヤを噛みしめ、味わうことも、解釈を変える方法なのだと思う。