蓄積ヒストリー

内向型女子32歳。東京で、もがいて痛みながら作り出す、余白のある人生。

築地川が首都高速道路になるまで・開通後、発展の影と人々の記憶―消えた川の歴史と向き合う―

 

かつて、風情溢れる川として人々が集う場所だった東京・築地川。
そんな場所が、時代の波にのまれ、首都高速道路となった。

地域の歴史を塗り替える大きな変化は、なぜ受け入れられたのか?
消滅した築地川の歴史はなかったものとなるのか?

シリーズで、築地川の歴史を振り返り、考えてみたいと思います。

 

第1回:築地川概略 明治時代から昭和時代終戦まで
第2回【前編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで 
第2回【後編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで
第3回:首都高速道路開通後―発展の影と人々の記憶(本稿)
終わりに―消えた川の歴史を未来へ活かす―

第2回を書いてから、時間が経ってしまいました。
今回は第3回。首都高速道路開通後の築地川へ迫ります。

この世界、光があるなら、影がある。
影をみつめ、消えゆく記憶をみつめ、見えてくるものがある。
東京の歴史の蓄積、めくるめく更新、そしてこれから。

一緒に考えてみませんか。

 

 

1 築地川残存部分をめぐる動き


まずはおさらいを。
築地川は、①本流、②南支川、③東支川の3種に分類されます。
1962年までに首都高速道路になったのは、本流の大部分(三吉橋~南門橋)。
川底が干拓され、そのまま首都高速道路として利用されています。

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 (一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工

では、首都高速道路にならなかった残りの築地川は、その後どうなったのか??
本流の残り、南支川、東支川が辿った運命を見てみましょう。

(1)幻の道路計画

築地川跡地に、謎の空間があるのをご存知ですか?
都心の一等地をぜいたくに使った広場。

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漂う廃墟感。

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地図でいうとここ。ぽっかりスペース。

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 (一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工

ここ、幻の道路の痕跡なんです。
その名も、都市計画街路補助道路153号線。

補助道路153号線は、首都高速道路のバイパス道路として計画された一般都道です。
計画ルートは地図の青線のとおり。築地川のコの字部分を、バイパスとして使う予定だったんですね。

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(一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工

計画が持ち上がったのは1965年。首都高速道路開通の3年後です。

イケイケドンドン。
首都高も開通したし、車をじゃんじゃん流すぜ!!
補助道路153号線による、一層の交通マヒ緩和が期待されていたのでした。


しかし、新たな壁が立ちふさがります。
それは、周辺環境の悪化。

騒音と排気ガス問題に加え、住宅地まで渋滞が押し寄せるとして、周辺住民が建設反対運動を起こしたのでした。

予算問題や、地盤沈下による事故で工事は長期化。
当初、補助道路153号線は1968年竣工予定でした。
しかし、1972年になっても完成したのは一部分のみ。(先ほどのぽっかりスペース部分) 

工事に着手できずにいた、築地川本流の一部、南支川、東支川は、その間流れをせき止められ、放置されていました。
当然、川の水は黒くよどんで汚染が悪化…。

当時は公害が頂点に達していた時代です。
建設反対運動は激しくなり、補助道路153号線計画は頓挫します。

(2)築地川の声なきメッセージ

工事未着手のまま放置された築地川本流の一部、南支川、東支川は、1977年までに埋め立てが決定します。

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今から話すのはこの部分。
(一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工


本流の一部と南支川は、築地川公園と駐車場・駐輪場に。
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せせらぎもつくられている
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築地本願寺裏の駐車場
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東支川は、同じく駐車場・駐輪場に(一部は公共施設にもなっている)
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これで、ほぼすべての水面が失われた築地川ですが、最後まで水面が残った箇所がありました。

浜離宮の脇です。
実はここも、1980年代後半、埋め立て計画が持ち上がっています。

住みやすい環境を奪われることにこりごりしたのでしょうか。
周辺住民の反対運動により、水面は守られました。
今も最後の築地川として、歴史を伝えています。

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(一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工

首都高速道路建設後、残りの築地川が辿った運命。
それは、築地川の存在が、東京から消えゆく過程でした。

築地川支川跡にできたのは、道路ではありません。
増加した自動車の退避場所(駐車場)であり、
住民の憩いの場である公園でした。
最後の築地川水面は、住民の力で残されています。

「早く東京を美化するんだ。汚い川はいらない」
築地川は、発展する東京が不要とした河川でした。

でも、築地川を失って気づいたのは、急速な都市整備が生んだ矛盾。
河川が生活にもたらす潤いの豊かさ。

「これから、都市と川の関係をどうしますか?」

消滅した築地川は、声なきメッセージを問いかけてきます。

2 快適さの影に―失われた築地川―

築地川が首都高速道路に姿を変える。
高速道路の建設発表から、完成までたったの5年。

交通マヒの当時の東京に首都高速道路は不可欠。
都市美化とは、汚い河川を一刻も早く消すこと。
時代の要請に従い、築地川の変化はスムーズに受け入れられたように見えます。

   でも、本当にみなが、築地川の干拓を喜んだの?
   築地川は、東京から消え、忘れられたの?

 最後に、築地川をめぐるひとりひとりの「人」に着目して、築地川干拓を見つめてみます。 

(1)消えゆく水上生活者

かつて、築地川を生活・商売の場としていた人々がいました。

水上生活者。

回漕会社に所属し、積荷の命令を受けて、はしけ舟で水運に従事していました。
関東大震災後から終戦後しばらくの東京は、水運最盛期。彼らは、東京の物流を支えていたのですね。
水上生活者の子どもたちが通う水上小学校があったほど、往時は多くの人が川で生活していました。

 築地川干拓決定は1959年。
水運は衰退し、数は減っていますが、まだ水上生活者も残っていた時代。
築地川に生きていた人々は、干拓をどのように受け入れたのでしょうか。 

ここからは、ちょっぴりドキュメンタリー風でお送りします。

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河川の汚染が進み、自動車時代が到来した東京。

「仕事を失う日が来るのではないか。」
「結婚できるのかな」
「衛生面や、教育面で子どもが心配…」
漠然とした不安が、水上生活者たちを包んでいた。

そこへ舞い込んだ築地川干拓の知らせ。
当時東京都は、中央区田原町に水上生活館を運営し、水上生活者の福祉を手厚く図っていた。

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田原町は、築地川南支川のすぐ隣にあった旧町名。
(一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工

「近所の汐留川の埋め立てのときは、都は見舞金くれて、引っ越し代も払ってくれたんだってさ」
「都営住宅もあっせんしてくれたらしいよ」
「築地川でも、都は同じ補償してくれるよな。おれたち陸に上がっても、きっと、うまくやっていけるよな」

…そろそろ潮時かもしれない。
首都高速道路建設をきっかけに、水上生活を手放した人は多かった。

でも、誰もがすぐに陸に上がれたわけではない。
干拓に反対し、築地川の水が抜かれた後も川に居座った人々もいた。
最後は、都による舟の強制撤去が行われた。

 

干拓に反対した人。受け入れの姿勢を取った人。
どちらも、築地川に暮らし、築地川で働いていた人々だ。
慣れない陸地生活への転換が求められた。

親から受け継いだ舟への思入れ。
東京の物流を支えているという誇り。

そこには、ひとりひとりが紡ぐ小さな物語があっただろう。
東京の発展の陰には、消えゆく物語と、今までの生活を失う人々の不安と覚悟があったのだ。
今を生きる私たちは、その事実を忘れてはならない。

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(2)築地川は本当に消滅したのか?

ここからは通常モードに戻ります。笑

築地川の風情は、映画や文学作品の舞台として大人気でした(第二回後編の記事参照)
首都高速道路になって、風情が消えてもなお、築地川には人を惹きつける何かがあるようです。

水辺の風景とともによみがえる、淡い思い出。
時代の流れを受け入れ、姿を変えた築地川に、もう戻れない過去を重ねて。

首都高速道路開通後の築地川を扱った作品から、「人と築地川の関係」について考えてみます。 

ア 芝木好子『築地川』(1972年)


「州崎パラダイス」などで知られる芝木好子は、築地川を愛した作家のひとり 。
『築地川』は1960年代半ばの築地を舞台にした作品です。

…築地川に水があったころ。
少女の記憶は、川の風景とともにありました。
でも、大人になるためには、優しい風景にいつまでも浸っているわけにはいかなくて…。
少女から大人へ成長する主人公の心情を、首都高速道路へ変化した築地川の風景に重ねています。

イ 吉田みさを『築地川いづこ』(1984年)


 「水に映る幟り旗の影くだきつつ小砂利つむ舟築地川くだる」

 「さんざめく東踊りの提灯を水面に揺らせし築地川いづこ」

 吉田みさをは、銀座8丁目の旅館の娘として育ちました。1923年に泰明小学校を卒業した彼女にとって、築地川は幼い頃から親しんだ川。
 年老いて振り返ったとき、築地川の風景が、記憶とともによみがえったのでしょう。
彼女は他にも築地川関連の句を複数残しています。

 もう戻れない風景と記憶に、「築地川いづこ」と呼びかける切なさ。
 水を湛えた築地川の穏やかさは、今までの人生をそっと支えてくれていました。

3 築地川は何処へ

かつて築地川は、非日常空間を演出する場所でした。風情が溢れ、優しい雰囲気の中、たくさんの思い出が生まれる場所。

では、首都高速道路に姿を変えた築地川は?

川底を流れる車を眺めながら、思い出を、戻れない過去を回顧する場所へ。
行き交う車の音の中、過去の扉をそっと閉める。
でも、過去があるから今があると、今を受け入れて、前を向く。 

もちろん、在りし日の築地川を知らない人は、思い出をもって今の築地川を眺めることはできません。
でも、欄干、今も残る築地川の名前、堀割そのままの地形は、確かにそこに川があったことを物語っていて。


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築地川は消えても、築地川が地域に刻んだ歴史は消し去ることはできない。
築地川の物語を知り、受け入れ、尊重した上で、今を積み重ねて、未来を作っていく必要がある。


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―築地川は何処へ?

人々記憶の中に、築地の歴史の中に、今も確実に存在しているのです。

次回、終わりに―川の消えた川の歴史を未来へ活かす―と題し、
都市の歴史とどう向き合うか?
歴史を未来へ生かす意義とは?

ここまで築地川と向き合って、考えた答えを書いていきたいと思います。

chikuseki-history.hatenablog.com

 



【参考文献】

「生まれ変わる”築地運河”車両専用都道に3年後に開通高速1号線とも連絡」1967年8月27日 読売新聞 朝刊13頁
中央区京橋図書館中央区年表 昭和時代Ⅳ(公害の頂点篇)』1990年
中央区区政年鑑昭和43年』
中央区区政年鑑昭和44年』
「築地川そばに大穴 地盤沈下」1968年6月20日 読売新聞 夕刊11頁
「ずさん都道 宙に浮く」1972年9月20日 朝日新聞 朝刊21頁
「堀割 3世紀目の幕 築地川の東、南両支川」1977年1月19日 読売新聞 朝刊20頁
菅原健二『川跡から辿る江戸・東京案内』洋泉社 2011年 127~175頁
「埋め立てに揺れる東京・銀座最後の川 浜離宮のお濠守り抜こう 写生会や座談会」1988年6月15日 読売新聞 朝刊22頁
浜離宮の水辺守れ 住民団体が東京都と国に要望書提出へ」1989年4月3日 読売新聞 朝刊24頁
「築地川は残った 市場工事で一度は埋め立てのピンチ 都のズサンな計画が功名」1990年6月26日 読売新聞 夕刊19頁
「消えゆく水上生活者」1960年4月19日 朝日新聞 朝刊12頁
「減っていく水上生活者 家計にひびく教育費」1959年9月6日 朝日新聞 朝刊12頁
「陸に上る水上生活者」1957年4月8日 朝日新聞 朝刊8頁
中央区京橋図書館中央区年表 昭和時代Ⅶ(成長と飛躍編)』1986年
「築地川の中央ボートを強制撤去 きょう都河川部長総指揮で」1961年2月28日 読売新聞 朝刊10頁
道路公団ヤキモキ立ちのき拒む築地川のボート屋」1961年8月5日 朝日新聞 朝刊14頁
「干上がった川になお居すわり ボート・ハウスへ強権」1961年9月26日 朝日新聞 朝刊13頁
芝木好子『芝木好子作品集 第三巻 面影 築地川』読売新聞社 1975年
吉田みさを『築地川いづこ:吉田みさを歌集』太陽の舟短歌会出版部 1984年 108頁・109頁
銀座文化史学会『銀座文化研究 第七号』 1992年