蓄積ヒストリー

内向型女子32歳。東京で、もがいて痛みながら作り出す、余白のある人生。

築地川が首都高速道路になるまで・終戦から高度経済成長期【後編】―消えた川の歴史と向き合う―

かつて、風情溢れる川として人々が集う場所だった東京・築地川。

そんな場所が、時代の波にのまれて姿を変え、首都高速道路となった。

地域の歴史を塗り替える大きな変化は、なぜ受け入れられたのか?

消滅した築地川の歴史はなかったものとなるのか?

シリーズで、築地川の歴史を振り返り、考えてみたいと思います。



第1回:築地川概略 明治時代から昭和時代終戦まで
第2回【前編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで 
第2回【後編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで(本稿)
第3回:首都高速道路開通後―発展の影と人々の記憶
終わりに―消えた川の歴史を未来へ活かす―



今回は第2回【後編】です。
【前編】ではインフラ整備の観点から戦後の都市河川を見つめました。
【後編】では周辺地域の視点から、築地川干拓までの過程を見つめてみたいと思います。

 

 

1 終戦後の築地風景

戦前の築地川は、料亭街・劇場街のイメージが重なり、非日常を演出する場所として機能していました。(詳細は第1回記事をご覧ください)

終戦後も、この機能は継続していたようです。

 

1956年に始まったのが、歌舞伎の船乗り込み(歌舞伎役者が挨拶を船で触れ歩き劇場入りするイベント)。役者を一目見るために大勢のファンが川岸につめかけました。

 

「じゃっ、本日もおつかれさまでした~」

あ、提灯の明かりの中、川の上の牡蠣船で一杯ひっかけてる人もいます。ええですなあ

 

でも、確実に時代は進行し、築地川にも変化の波が迫っていました。

 

築地川は、しばしば映画や小説の舞台にもなっています。

川島雄三監督『銀座二十四帖』(1955年)

成瀬巳喜男監督『銀座化粧』(1951年)『秋立ちぬ』(1960年)

小説では、三島由紀夫『橋づくし』(1958年)などです。

 

映画では、橋と川の風景の中に、風に吹かれる柳、料亭らしき建物や旅館の存在が映し出されます。

貸しボートに乗る男女二人組。戦前と変わらないのかな?と思いきや、こんなセリフも。

 

「ぷんぷんたるドブ川の臭気はこの映画には映っておりません」(銀座二十四帖)

「うちの近所の川、ドブ川みたい。」(秋立ちぬ)

「あの臭いをかぐとご飯が食べられなくなる」(同上)

 

下水道の整備が進まぬ中、人口だけがどんどん増える。流れ込む生活排水は増える一方だったのでしょう。

当時の新聞記事にも、築地川のどす黒さや、メタンガスの発生を報じる記事が出ています。

 

一方、小説『橋づくし』は、花柳界を舞台にした物語。

築地川にかかる7つの橋を誰とも口を聞かずに渡り切れば願いが叶う。

芸妓と料亭の娘が月夜の築地界隈を静かに歩きます。

 

なんだか艶めかしい雰囲気が漂う物語。

でも、周辺のビル化やコンクリート化の様子がところどころに挟み込まれています。

築地橋にいたっては、「風情のない橋」とはっきり描写されています。

 
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築地橋の写真を撮るのを忘れたので、同じく『橋づくし』に出てくる堺橋の現在を。地図↓

 

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 (一財)日本地図センターが作成した「東京時層地図」を加工

 周辺地域が発展し、都市化と水質汚染が進んだ時代。

「非日常を演出する場所」という築地川のイメージは、崩れやすい状況になっていました。

 

2 築地川干拓までの流れと首都高速道路建設反対運動

 

以上を踏まえて、

首都高速道路建設原案発表(1957年)から、

・築地川の干拓が正式決定(1959年)し、

・実際に開通するまで(1962年)

地元でどのような動きがあったのか確認してみます。

建設発表から開通まで、たったの5年なのですね…

 

やはり、地元は当初築地川干拓に反対の意向を示していたようです。

反対運動は、町会(地域の人々)が区議会へ請願するなどして中央区(行政)を巻き込みながら行っていました。

 

どうして地元は干拓に反対したのか?

どうやら、築地川を観光河川として都市美化に利用したい、という思いがあったようです。

観光河川としての活用案について、詳細は残っていませんでした。

ただ、これまで見てきたように、次のような内容だったことが想定できます。

・演劇鑑賞や貸しボート、牡蠣船などのレクリエーション

・風情を味わう

・川を都市美と結びつけ、川の景観を楽しむ

 

しかし、地元が高速道路建設そのものを反対したのは、初期だけだったようで…。

干拓にどうやって反対するか」から、

「どのように高速道路を受け入れるか」へ

観点がシフトしていきます。

議論は、こんな感じで進められていたようです。

・騒音対策は?

 →首都高地下化を検討する。

・防火用水の確保は?

 →貯水槽とマンホールを新設する。

・川がなくなった場合の景観はどうする?

 →橋公園を造成する。

 
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地下化はさすがに実現せず。なぜか三吉橋付近の築地川にトタン屋根がついているのはせめてもの騒音対策なのか??

 

ここで注目したいのが橋公園です。

橋公園は、現在、築地川と楓川にかかる橋に付属している、15の公園のことです。

 


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橋公園のひとつ、築地川銀座公園

 

 橋公園は、次の2つの意義を持っていました。

①橋のたもとを緑化することによる、都市美の確保

②川をつぶしたことに対する補償

 

当初、周辺地域の人々は、景観の観点から築地川干拓へ反対していました。

しかし、水質汚染の進行により、川が都市美を維持する機能を失っていたことも、わかっていたのでしょう。

「もう、築地川に景観の美しさを求めるのは無理かもしれない」

都市美の確保は、水辺ではなく、橋のたもとのみどりに任されたのでした。

 

橋公園は、築地川に代替する補償施設です。

築地川がなくなること、

それは、「補償」されるべき事実と考えられていた。

周辺地域の人々が、築地川へ愛着を持っていたことが読み取れます。

 

でも、築地川の水面は失われた…。

 

3 消えた築地川 時代の要請に従って

時代は待ってくれませんでした。

自動車交通の発展。

東京における中小河川の地位低下。

五輪開催決定による都市整備の急進。

 

この時代にとって、都市美化とはなにか?

人と川がともに生きる方法を考えることではなかった。

汚れた 川は埋めて、干拓して、見えないようにする。

水の代わりにみどりを使って美化を図る。

快適で、便利な生活を手に入れることだったのです。

 

当時の東京のカオス感が伝わる素敵な動画。BGMがカオス感をさらに掻き立てます。

開通ほやほやとみられる、築地川底の首都高速道路らしき映像も。この手の動画は永遠に見ていられる…笑

 

当時の東京に首都高速道路は不可欠でした。

用地として河川を利用するのも必然で、最も効率的な方法だったのです。

 

地川が首都高速道路へ姿を変える。

時代の要請を、周辺地域が受け入れたゆえの変化だったのです。

 

でも、築地川は完全に忘れ去られてしまったのでしょうか?

地域とともに歴史を歩んだ築地川を、消えた河川、この世にはない河川として扱ってよいのでしょうか??

 

第3回:首都高速道路開通後―発展の影と人々の記憶に続きます!

chikuseki-history.hatenablog.com

 

 

 【参考文献等】

川島雄三『銀座二十四帖』日活、1955年 

成瀬巳喜男『銀座化粧』国際放映、1951年

成瀬巳喜男『秋立ちぬ』国際放映1960年

三島由紀夫『橋づくし』文藝春秋新社、1958年

「築地川を守ろう『高速道路』反対に動く」『朝日新聞』1958年7月8日朝刊

「築地川を埋め立てるな 一二日に反対区民大会」『朝日新聞』1958年11月12日朝刊

「川に代わる水源の確保」『読売新聞』1960年3月4日朝刊

「高速道路めぐる地元の要望 河床式には“フタ”を 区議会で請願まとめ 都と折衝」『読売新聞』1960年4月13日朝刊

中央区中央区政年鑑 昭和34年版』1960年

「風情消える築地川」『朝日新聞』1961年6月12日夕刊

中央区京橋図書館中央区年表 昭和時代Ⅶ(成長と飛躍編)』1986年

中央区京橋図書館中央区年表 昭和時代Ⅷ(高度成長編)』1988年

中央区中央区政年鑑 昭和34年版』1960年

「“掘り割り式”高速道路 二キロ、川底を走る」『朝日新聞』1960年9月3日朝刊

「高速道路またぐ小公園 東京 旧築地川」『朝日新聞』1962年3月26日

「罪ほろぼし 橋公園」『読売新聞』1969年5月27夕刊

「ひどい悪臭 築地川小田原河岸しゅんせつ請願書」『読売新聞』1956年4月1日朝刊

「風情消える築地川」『朝日新聞』1961年6月12日夕刊

川本三郎『銀幕の東京』中公新書、1999年

「経済生活の大動脈 河川運河は硬直状態 丸ビル15杯分の土砂」『読売新聞』1956年、5月2日 

財団法人東京都新都市建設公社まちづくり支援センター『東京の都市計画に携わって―元東京都首都整備局長山田正男氏に聞く―』2001年