蓄積ヒストリー

内向型女子29歳。もがく日常、まちの歴史ものがたり。

築地川が首都高速道路になるまで・終戦から高度経済成長期【前編】―消えた川の歴史と向き合う―

 

かつて、風情溢れる川として人々が集う場所だった東京・築地川。
そんな場所が、時代の波にのまれて姿を変え、首都高速道路となった。

地域の歴史を塗り替える大きな変化は、なぜ受け入れられたのか?
消滅した築地川の歴史はなかったものとなるのか?

シリーズで築地川の歴史を振り返り、考えてみたいと思います。 

第1回:築地川概略と、明治時代から昭和時代終戦まで
第2回【前編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで(本稿)
第2回【後編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで
第3回:首都高速道路開通後―発展の影と人々の記憶
終わりに―消えた川の歴史を未来へ活かす―

 

今回は第2回です。終戦から、首都高速道路に姿を変えるまでの築地川を考えます。

前編は、当時の社会情勢を見つめて。

後編は、首都高速道路を受け入れた、周辺地域の視点に立って。

では、前編スタート!

 

1東京における河川暗渠化(埋め立て)の進行―残土処理と水運衰退

 

東京は、水の都。河川が内陸部まで張り巡らされ、水運や防火において、重要な役割を担っていました(前稿のとおり)。

しかし、1948年から中央区の河川の暗渠化が続々と始まっていきます。

 

いや、ちょっと待って。

今までめっちゃ使ってたのにいきなり埋め立てていいの??

 

戦争が終わったとたん、河川は不要となったのはなぜ?

築地川が首都高速道路となった理由を考える前提として、考察してみたいと思います。

 

 終戦後の東京は、切実な問題を抱えていました。

…「残土」どうするよ?

 

残土とは、戦災で発生した焼土とがれきと灰のこと。残土処理なく、東京の復興はできません。

「残土の処理場、東京湾の埋め立てて作るのと、内陸部の河川埋め立てて作るのどっちがいい?」

「内陸部の河川でいいんじゃん?」

そだねー

 

だから、ちょっと待って。今まで河川めっちゃ使ってたんだから、残土普通東京湾に持ってかない??どうして、河川を残土で埋めちゃうの??

 

東京都区部の人口は、終戦直後300万人を割るほどに減少しました。

再び人が戻り、1955年には戦前のピーク700万人を超えるまでとなります。

人口増加の過程で、残土は、交通、衛生、治安上で速やかに処理すべき問題となりました。

but こんな声が聞こえてきます…

「トラックを動かすガソリンがない…」

「残土を東京湾埋立地まで運ぶ力がでない…」

 

そう、当時の東京は深刻な物資不足。つまり、内陸部の河川埋め立てが、最も効率が良い残土処理方法だったのです。

 

「ついでに金もないよ…」

都の財政も終戦直後でひっ迫していました。

当時都が取った対応は、河川を埋め立てて土地を造成し、それを売却して事業費を捻出する方法(1946年 東京都戦災復興計画)。

 

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銀座の川も次々に埋められていきました。銀座コリドーも外堀川の上にできたもの。。

 

終戦後、首都東京の復興は急務でした。日本の未来が懸っていたともいえるでしょう。

「物資と資金は不足しているけど、やるしかない」

河川がそれまで持っていた役割を捨てても復興を急いだのは、当然だったのかもしれません。

 

2 自動車時代の到来とカオス東京

 朝鮮戦争による特需で物資不足は解消されていきます。

 …やってくるのは、「自動車時代」。

 

  自動車は物資を内陸まできめ細かく運べます。

  河川が埋め立てられる中、陸運は、水運に代わって輸送の中心となりました。

 

自動車台数は、1950年に戦前を上回る約65000台に達すると、その後約3年ごとに倍増を繰り返しました。必然的に、交通マヒが問題となります。

 

「あ~、もう、全然進まない!」

鳴り響くクラクションの音。排気ガス。大渋滞にぼやく運転手の声…。

1965年には『車より歩くほうが速い』時代が来る」とも言われ…。

交通マヒの解消の必要性が新たに浮上してきたのです。

 

高度経済成長期に突入した東京は建設ラッシュの時代へ。

朝から晩まで鳴りやまぬ槌音。

溢れる車、環境の悪化。

人もどんどんやってくる。

急激な膨張に、これまでの都市構造は耐え切れません。

ゆがみが生じて、カオス状態にあったことは容易に想像できますね…

 

3 河川を高速道路へ 気運の盛り上がり

さて、築地川に視点を戻しましょう。

築地川は、人ともに地域に根付いていた。なのに、どうして首都高速道路に姿を変えてしまったの??

 

1959年12月。築地川が、首都高速道路になることが正式に決定。

同年5月には東京オリンピック開催も決定しています。

さあ、いよいよ、交通マヒ解消、都市改造を加速させねばなりません。

 

残土処理により、内陸部河川の多くはすでに埋め立てられていました。

水運機能も完全に衰退。まだ生き残っている河川も、もはや無用の長物です。

「だったら、交通マヒの解消に利用したほうがよっぽど効率的じゃん。カオス東京をなんとかしなきゃいけないもん。」

そう考えるのが自然な時代でした。

 

 当時は、高架式高速道路よりも、掘割式高速道路(川底を道路にする)が推進されていたようです。理由は、高架を作らないために美観を損なわず、工事費がかからないためです。

しかし、市街地で河川を干拓するのは難しく…。実際に掘割式高速道路が作られたのは、築地川・楓川間のみでした。海が近く、排水がしやすいという利点があったのでしょう。

 

でも、築地川が水を失い、道路へ姿を変えた理由は、

・交通マヒの解消の緊急性

・工事がしやすかったから、

だけなのでしょうか。

 

世間は河川を不要なものと扱っていた。

でも、築地川とともに歴史を歩んできた地域も、同じように築地川を不要と考えていたのでしょうか。

 


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現在の築地川 。流れるのは車。

 

首都高速道路となる直前の築地川が、周辺地域にとってどんな存在だったのか。

どんな交渉を経て、川は首都高速道路へ姿を変えたのか。

後編では、周辺地域の視点から、築地川干拓の謎に迫ります。

第2回【後編】終戦から1962年首都高速道路開通まで続く!

 

【参考文献】

陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房、1992年

池田信『1960年代の東京―路面電車が走る水の都の記憶―』毎日新聞社、2008年

日本文化会議『東京における水辺空間の歴史的研究』1985年

中央区中央区三十年史 上巻』1980年

片木篤『オリンピック・シティ東京1940 1964』河出書房新社、2010年

山田正男「東京の都市高速道路計画―1―」『新都市』都市計画協会、1960年

東京都建設局都市計画部『東京都市計画都市高速道路網計画案・東京都市計画都市高速道路調査特別委員会報告書』1958年、246頁。