かつて、風情溢れる川として人々が集う場所だった東京・築地川。
そんな場所が、時代の波にのまれて姿を変え、首都高速道路となった。
地域の歴史を塗り替える大きな変化は、なぜ受け入れられたのか?
消滅した築地川の歴史はなかったものとなるのか?
シリーズで築地川の歴史を振り返り、考えてみたいと思います。
第1回:築地川概略と、明治時代から昭和時代終戦まで
第2回【前編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで(本稿)
第2回【後編】:終戦から1962年首都高速道路開通まで
第3回:首都高速道路開通後―発展の影と人々の記憶
終わりに―消えた川の歴史を未来へ活かす―
今回は第2回です。終戦から、首都高速道路に姿を変えるまでの築地川を考えます。
前編は、当時の社会情勢を見つめて。
後編は、首都高速道路を受け入れた、周辺地域の視点に立って。
では、前編スタート!
1東京における河川暗渠化(埋め立て)の進行―残土処理と水運衰退
東京は、水の都。河川が内陸部まで張り巡らされ、水運や防火において、重要な役割を担っていました(前稿のとおり)。
しかし、1948年から中央区の河川の暗渠化が続々と始まっていきます。
いや、ちょっと待って。
今までめっちゃ使ってたのにいきなり埋め立てていいの??
戦争が終わったとたん、河川は不要となったのはなぜ?
築地川が首都高速道路となった理由を考える前提として、考察してみたいと思います。
終戦後の東京は、切実な問題を抱えていました。
…「残土」どうするよ?
残土とは、戦災で発生した焼土とがれきと灰のこと。残土処理なく、東京の復興はできません。
「残土の処理場、東京湾の埋め立てて作るのと、内陸部の河川埋め立てて作るのどっちがいい?」
「内陸部の河川でいいんじゃん?」
「そだねー」
だから、ちょっと待って。今まで河川めっちゃ使ってたんだから、残土普通東京湾に持ってかない??どうして、河川を残土で埋めちゃうの??
東京都区部の人口は、終戦直後300万人を割るほどに減少しました。
再び人が戻り、1955年には戦前のピーク700万人を超えるまでとなります。
人口増加の過程で、残土は、交通、衛生、治安上で速やかに処理すべき問題となりました。
but こんな声が聞こえてきます…
「トラックを動かすガソリンがない…」
そう、当時の東京は深刻な物資不足。つまり、内陸部の河川埋め立てが、最も効率が良い残土処理方法だったのです。
「ついでに金もないよ…」
都の財政も終戦直後でひっ迫していました。
当時都が取った対応は、河川を埋め立てて土地を造成し、それを売却して事業費を捻出する方法(1946年 東京都戦災復興計画)。
銀座の川も次々に埋められていきました。銀座コリドーも外堀川の上にできたもの。。
終戦後、首都東京の復興は急務でした。日本の未来が懸っていたともいえるでしょう。
「物資と資金は不足しているけど、やるしかない」
河川がそれまで持っていた役割を捨てても復興を急いだのは、当然だったのかもしれません。
2 自動車時代の到来とカオス東京
朝鮮戦争による特需で物資不足は解消されていきます。
…やってくるのは、「自動車時代」。
自動車は物資を内陸まできめ細かく運べます。
河川が埋め立てられる中、陸運は、水運に代わって輸送の中心となりました。
自動車台数は、1950年に戦前を上回る約6万5000台に達すると、その後約3年ごとに倍増を繰り返しました。必然的に、交通マヒが問題となります。
「あ~、もう、全然進まない!」
鳴り響くクラクションの音。排気ガス。大渋滞にぼやく運転手の声…。
「1965年には『車より歩くほうが速い』時代が来る」とも言われ…。
交通マヒの解消の必要性が新たに浮上してきたのです。
高度経済成長期に突入した東京は建設ラッシュの時代へ。
朝から晩まで鳴りやまぬ槌音。
溢れる車、環境の悪化。
人もどんどんやってくる。
急激な膨張に、これまでの都市構造は耐え切れません。
ゆがみが生じて、カオス状態にあったことは容易に想像できますね…
3 河川を高速道路へ 気運の盛り上がり
さて、築地川に視点を戻しましょう。
築地川は、人ともに地域に根付いていた。なのに、どうして首都高速道路に姿を変えてしまったの??
1959年12月。築地川が、首都高速道路になることが正式に決定。
同年5月には東京オリンピック開催も決定しています。
さあ、いよいよ、交通マヒ解消、都市改造を加速させねばなりません。
残土処理により、内陸部河川の多くはすでに埋め立てられていました。
水運機能も完全に衰退。まだ生き残っている河川も、もはや無用の長物です。
「だったら、交通マヒの解消に利用したほうがよっぽど効率的じゃん。カオス東京をなんとかしなきゃいけないもん。」
そう考えるのが自然な時代でした。
当時は、高架式高速道路よりも、掘割式高速道路(川底を道路にする)が推進されていたようです。理由は、高架を作らないために美観を損なわず、工事費がかからないためです。
しかし、市街地で河川を干拓するのは難しく…。実際に掘割式高速道路が作られたのは、築地川・楓川間のみでした。海が近く、排水がしやすいという利点があったのでしょう。
でも、築地川が水を失い、道路へ姿を変えた理由は、
・交通マヒの解消の緊急性
・工事がしやすかったから、
だけなのでしょうか。
世間は河川を不要なものと扱っていた。
でも、築地川とともに歴史を歩んできた地域も、同じように築地川を不要と考えていたのでしょうか。
現在の築地川 。流れるのは車。
首都高速道路となる直前の築地川が、周辺地域にとってどんな存在だったのか。
どんな交渉を経て、川は首都高速道路へ姿を変えたのか。
後編では、周辺地域の視点から、築地川干拓の謎に迫ります。
第2回【後編】終戦から1962年首都高速道路開通まで に続く!
chikuseki-history.hatenablog.com
【参考文献】
池田信『1960年代の東京―路面電車が走る水の都の記憶―』毎日新聞社、2008年
日本文化会議『東京における水辺空間の歴史的研究』1985年
片木篤『オリンピック・シティ東京1940 1964』河出書房新社、2010年
山田正男「東京の都市高速道路計画―1―」『新都市』都市計画協会、1960年
東京都建設局都市計画部『東京都市計画都市高速道路網計画案・東京都市計画都市高速道路調査特別委員会報告書』1958年、246頁。