蓄積ヒストリー

内向型女子28歳。もがく日常、まちの歴史ものがたり。

築地川が首都高速道路になるまで・明治時代から終戦編―消えた川の歴史と向き合う―

 


築地川を知っていますか?

東京の築地地域にかつて存在していた河川です。

 

存在していた?では、今は??

 

築地川は干拓され、川底がそのまま首都高速道路となりました。

1962年に首都高速道路京橋~芝浦間が開通し、今は水ではなく、たくさんの車が流れています。

 

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万年橋から采女橋を見る

 

築地川はかつて、風情溢れる川として、人々が集う場所でした。

そんな場所が、時代の波にのまれて姿を変え、高速道路となった。

地域の歴史を塗り替える大きな変化は、なぜ受け入れられたのか?

消滅した築地川の歴史はなかったものとなるのか?

 

都市河川を愛する者として、向き合わざるをえませんでした。

 

シリーズで、築地川の歴史を振り返り、考えてみたいと思います。

第1回:築地川概略と、明治時代から昭和時代終戦まで

第2回:終戦から1962年首都高速道路開通まで 

前編 後編

第3回:首都高速道路開通後

 

都市の歴史を考えるとき、インフラの建設や整備といったハード面だけではなく、人の暮らしの蓄積という、ソフト面も顧みることが重要であると思っています。

インフラだけでは都市は都市たりえず、人が集まって暮らしてはじめて、都市と言えるからです。

ソフト面、ハード面の双方から、築地川と向き合ってみます。

 

 

1 築地川とは

築地は名前のとおり、築かれた土地。埋立地として江戸時代に造成された土地です。

築地川は埋め立ての過程で、築地の四方を囲む掘割として誕生しました。

そのため流れがほとんどなく、河川よりは運河といったほうが近いのかもしれません。

 築地川は、①本流、②南支川、③東支川の3種に分類されます。

 

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筆者作成 築地川地図 

 

2019年現在、築地川本流の、浜離宮庭園と中央卸売市場跡地間のみ水面が残っています。

築地川跡地の利用状況は次のとおりです。

 

①本流の大部分(川底の利用)

 首都高速道路(一部幻の高速道路と言われている部分もありますが…)

②南支川(暗渠の上部利用)

 築地川公園

③東支川(暗渠の上部利用)

 築地川駐車場・駐輪場、公共施設等

 

本稿で単に「築地川」といった場合は、本流の首都高速道路となった部分(三吉橋から南門橋まで)のことを指します。

 

さて、今回は、明治時代から昭和時代終戦までの築地川をのぞいてみましょう。

 

2 人々の暮らしと築地川 (ソフト面から)

(1)新しさとしとやかさが融合する場所、築地

築地本願寺を中心とした寺町が栄え、武家屋敷が立ち並んでいた江戸時代の築地。

明治時代に入ると、次の要因で雰囲気が一新します。 

・築地居留地の設置

・明治5年の大火

 

武家屋敷の宅地化が少しずつ進む築地。一方で、花街・新橋の流れを受けて料亭も多くありました。近くには木挽町新富座の劇場も栄えています。

どこか雅な雰囲気があったんだろうな…

 

西洋風の新しさの中に、しとやかな落ち着きがある地域として、築地は新たな歴史を刻み始めたのでした。

(2)明治時代と昭和時代にタイムスリップ!

 では、築地川は人々にとってどのような存在だったのでしょう。

「非日常空間を演出する場」だったのではないか?と推測します。

 

明治時代の築地川にタイムスリップしてみましょう。

 

「お~い!次はここから飛び込もうぜ!」

「え~、ちょっと怖いよ~それよりカニ捕まえようよ」

川の水はまだまだきれい。季節は夏のようです。水泳場が立ち並び、氷屋やアイスクリームのお店も出ています。

子どもたちは泳いで、遊んで、大はしゃぎ。

「いやいや、今日もよくかかる!」

その傍ら、大人たちは、釣りを楽しんでいますね。汽水域に住む魚がたくさん獲れたようです…

夏限定のワクワク感と、魚を釣り上げる喜び。築地川は人々の胸が高鳴る時間を彩っていました。

 

築地川は遊び場としてのほか、行事の場としても機能していたようです。

例えば、流灯会(りゅうとうえ)。

魚の形をした灯篭を流して、溺死者を供養しました。

お盆の時期には、お供え物を流したり、お台場へ行く納涼船が出航したり。

ちょっと特別な時間のそばに、築地川がありました。

 

さてさて、時代は下って昭和時代。

おやおや、都市化の進展、水上生活者の増加等に伴って、水の汚染が進んでいます…

今度は、水に直接触れないレクリエーションが盛んになったようです。

 

それはボート遊び。 

どうやら、ボートは若者の遊びのようですね。あらあら、若い男女がボートの上で語り合っていますよ。

「今日は一日、楽しかった。…次は、どこへ行こうか…?」

灯が水面に映り、柳と人力車が彩る料亭街の雰囲気が色濃い夕刻。

ドキドキロマンチックですね。

 

築地周辺には劇場も多くあります(歌舞伎座築地小劇場新橋演舞場、東京劇場など)。

水辺の風景と柔らかな提灯の明かり。

役者名を染め抜いた鮮やかな幟のコントラスト。

築地川岸辺の風景は、観劇という非日常へ人々を誘ったことでしょう。

 

人々の暮らしの中で、ワクワク、ドキドキ、特別な時間とともにあった築地川。

なまめかしさと粋な雰囲気が混ざり合い、非日常空間を演出していた築地川。

漂う汐の香が、より風情を際立たせていたことでしょう。

築地川と人との距離が近かった時代。ぜひタイムマシンに乗って行ってみたいですね…

 

3 水運機能と河川整備事業からみる築地川 (ハード面から)

(1)帝都復興と水運機能の拡張

 関東大震災前までは、築地川の水運機能はそれほど重視されていなかったようです。

周辺の楓川や京橋川は河岸が発展して賑わっていましたが、築地川はちょっと異なる雰囲気でした。

 

築地は周辺地域とは違って、特殊な施設が集まる場所。(居留地、海軍施設、劇場街、料亭など)

そのため、荷揚げ機能や市場機能を有する河岸と親和性が小さかったと推測されます。

 

また、貨物専門駅の汐留駅がそばにありましたが、築地川経由で内陸部へ入るルート(入船川)は狭く、輸送に不向きでした。入船川は、新島原遊郭(新富にかつてあった遊郭)の郭堀として作られたためです。

 

しかし、1923年。関東大震災が発生し、事態は一変。

 

陸運が一時壊滅した東京では、安く大量に運べる水運の重要性が見直されました。これをきっかけに、築地川においても水運が重視されるようになります。

 

帝都復興計画では、築地川・楓川連絡運河の開削が決定(1930年完成)。

築地川と楓川をつなげる運河です。楓川は、すでに重要な水路としてバリバリ活用されてきた歴史があります。この楓川と築地川を結ぶことで、築地川の水運機能UPを狙いました。

同時に、河川幅員の拡張も実施されています。

 

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背景には、建築工事の増加、築地市場の始まりがあったようです。

工事で使う砂利の運搬をより効率よく行う必要がありました。砂利運搬が増えた証拠として、震災後、采女橋脇には砂利置き場が設置されています。

 

また、当時魚河岸は日本橋にありましたが、震災で壊滅。

海軍施設用地の一部を借りて、仮市場ができました。築地市場のはじまりです。

市場ができる、すなわち荷物を運ぶ必要がある、ということです。

  

(2)帝都復興と三吉橋の架橋

関東大震災からの復興においては、橋梁の建築も重要な意味を持っていました。

最たる例が隅田川の復興九大橋梁。おしゃれなデザインの橋が9つ架けられました。

帝都復興にあたって近代都市としての景観の美しさを求めたとき、水辺と橋はその中心的役割を担っていたのです。

 

www.gotokyo.org

隅田川の復興橋梁のひとつ、永代橋

 

 築地川にもこの時期新たな架橋が複数行われています。中でも特徴的な橋梁は「三吉橋」。

形をみてください。三叉橋なのです!

 


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『観光の東京』東京都観光協会 1957年31頁より  

 


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現在の写真 中央区役所前から撮影

 

三吉橋は、ちょうど築地川が屈曲している場所、かつ築地川・楓川連絡通路開削との分岐点にかけられました。川がY字になっている場所にかけたので、三叉橋なのですね。

斬新なデザインで、スズラン型の街灯もついて、モダンでおしゃれ!

 

築地川に、帝都復興を象徴として、珍しいデザインの橋が架かる。

すなわち、当時の築地川は、隅田川と同等に、生まれ変わった近代都市東京の象徴にふさわしい場所と考えられていたのではないでしょうか。

 

水の汚染は少しずつ進行していましたが、それでも築地川は落ち着いた風情をたたえ、非日常的な雰囲気がある場所。当時の築地川は、モダンな橋とともに新たな東京名所となりうる力を十分に持っていたと考えられます。

                                                                                                           

4 明治時代から昭和時代終戦までの築地川はどんな存在だったか

「非日常空間を演出する装置」として、そして関東大震災以後は「水運上重要な水路」として、人の活動と切っても切れない関係を持っていました。

人の活動によって築地川が生かされ、築地川によって人の活動がより意味深いものとなる。

築地川は、人とともに地域に根付いていた河川だったといえるでしょう。

 

第2回:終戦から1962年首都高速道路開通までの築地川 前編 に続く。

 

【参考文献】

本願寺出版社東京支社『築地』本願寺出版社 2009年 

『明暦江戸図』1957年 

中央区京橋図書館中央区沿革図集[京橋篇]』人文社 1996年1

菅原健二『川跡から辿る江戸・東京案内』洋泉社 2011年 

 岸井良衛『大正の築地っ子』1977年 青蛙房 

読売新聞 1876.7.19/ 1878.6.16

鏑木清方『築地川』書物展望社 1934年 

篠田鑛造『銀座・築地物語繪巻』高山書院 1941年。

「帝都64の河川浄化の大評定 汚物を流せば厳罰に」1935年9月5日 読売新聞 夕刊2頁。

東京都『史料復刻 戦時下「都庁」の広報誌―「市政週報」「都政週報」―』2009年

市政週報 15,93,109,141,168,216号掲載記事

 金子弘作『木挽町界隈 銀座六・七丁目東町会記念誌』1985年

長谷川佳一『銀座には川と橋があった―昭和のはじめの子どもたち―』芸立出版1984

『エリアガイド16 銀座・日本橋・築地・新橋』昭文社 1981年

朝日新聞 1891.8.26/ 1892.7.13/ 1893.7.15/ 1895.9.22 

中央区中央区三十年史 上巻』1980年

日本文化会議 『東京における水辺空間の歴史的研究』1985年 

 昌子佳江「東京の都市計画と河川運河に関する歴史的研究」1993年  

東京府社会課『水上生活者の生活現状』1933年 

 陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房1992年

 『帝都復興記念寫眞帖』東京市1930年

『帝都復興事業誌 土木編下』東京市1931年

丹羽鋤彦『帝都復興に関する水運問題に就て』(2月25日工政会臨時総会席上講演)工政会1924年

中央区の橋・橋詰広場―中央区近代橋梁調査―』中央区教育委員会1998年